部屋へ荷物を取りに戻る

直前まで遊んでいたプール/部屋へ通じる廊下には水と瓦礫が溜まっていた

第二波が去ってしばらくして、夫が部屋にPCや荷物を取りに行きました。

「自分たちの部屋が浸水していて、荷物も流されているのではないだろうか」という不安、そして「また津波が来るのでは」という恐怖感と戦いながら、避難場所から海側に位置する自分たちの部屋へ、荷物を取りに戻りました。

部屋へ向かう途中で、部屋の前にあるプールの色が鮮やかなブルーから濁った茶色に変わっているのが目に入りました。そしてさらによく眺めると、自分たちの部屋の前も、ある程度の深さの波が来て、引いていった跡がうかがえました。部屋に向かうまでには、深い水たまりや瓦礫の集まりを越えていかなければなりませんでした。

さらに驚いたことに、家族で朝食をとったレストランの中が、波で流されて空っぽになっていました。ユリの話では、第一波ではこれほどの被害はなかったはずでしたので、第二波によってかなり大きな被害を受けたことがわかりました。

恐る恐る部屋の鍵を開けて中に入ると、幸運にも部屋の中には水が入っていませんでした。そこでPCとDVD、充電器類、サクラのお気に入りタオルケットなどを急いでバッグに詰め、逃げるように走って避難場所へ戻りました。

私たちはタラパトンホテル新館の4階のエレベーターホールに避難していました。そこでは『次は午後2時に6メートルの波が来る』とか『また波がくるらしい』いう情報が飛び交い、すぐに部屋に戻ることができそうにはありませんでした。

そこで夫と『万一の時はこの場所で一晩過ごそう』と話し、部屋からはサクラのお気に入りのタオルケット(日本より持参)と枕、バスタオル類を持ち出し、虫除けスプレーや医薬品も全部避難場所へ持ってきました。

避難していたエレベータホール/階段には至る所に血痕があった

最終的に避難場所にはこれだけのものを持ち込みました。

それ以外のものは万一流されてしまった時は仕方ないとあきらめました。

非難していた場所には子連れ家族を中心に一番多い時で60人くらい、最終的には30人くらいが避難をしていました。けがをした人、怖い思いをして泣き続けるこども、誰もがみな暗く疲れた顔をしていました。そして”水”がきたということ以外は何が起こったのか全く分からない状況でした。

情報源

お昼前くらいに私の携帯電話がなって出てみたら、心配をする日本の親からの電話でした。『プーケットで大津波というニュース速報がでたのでびっくりして電話をかけてみた。何度もかけてやっと繋がった』と大変心配した様子です。まずは自分達の無事を伝え、今後はどうなるか全く分からないのでまた連絡する旨を伝えました。

私の携帯電話は旅行の直前に日本と同じ番号で海外でもかけられる、ボーダフォンのV801SHに変えたばかりだったのです。もちろん何の手続きもなく日本に電話も出来るしメールもインターネットも繋げるものだったのですが、この混乱ですっかりその存在を忘れていました。

改めて夫が日本のネットへ接続してようやく『スマトラ島沖でマグニチュード8.2の地震が発生』という記事を目にして今回の水の原因を初めて知りました。そして周りの人に今回の水は津波であって地震が起こったことによって発生したものだと思うと説明しました。この時は津波の英訳が思い浮かばずに(結局は『Tsunami』だったのですが)『Tidal Wave』という表現を使いました。私が住んでいる日本は地震が多く度々被害にあっていること、また地震による津波の被害も過去に大きなものがあり多くの被害がでたことなどを説明しました。でも日本では警報システムが整っているので、地震があるとすぐに津波が来るかどうかが分かる…なんていう話を周りの人としていました。

しかし情報が得られて更に怖くなってしまったのは、『ShockWave』が来るかもしれないということでした。奥尻島の話を思い出し、アンダマン海からインドに到達した津波がはね返って、またプーケットに向かって再び押しよせてくるんじゃないかという恐怖。津波の知識があまりないので想像ばかりがどんどん大きくなってきてしまいました。

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