もうひとりの目から見て

被災前日 ラチャ島にて

以下はユリの夫"のぶを"の手記です。被災後3週間が経って、気持ちの整理がついたことと、被災時の記憶が鮮明なうちにテキストで残そうと思い、まとめました。

前の日までたっぷりとビーチで遊んでいたので、プールで遊ぶのが新鮮に感じられて、子どもたちとゆったりと泳ぎを楽しんでいました。こちらでは昼過ぎくらいにならないと皆外に出てこないので(夜遅くまで遊ぶため?)、プールで遊んでいたのは私たちだけでした。

ところがそんな静かなプールサイドに、作業服を着て掃除用の熊手を持った現地の人が、海の方から無言で息を切らして走ってきました。さらに海の方向から次々と同じように人がたくさん走ってきました。水着を着たままの観光客もいれば、サーティーワン・アイスクリームの店員さん、ホテルの従業員風の人、普通の現地人などもいました。その数はどんどん増えていきました。皆不安そうな顔をしており、小学生くらいの子が泣いているのが見えました。

ただならぬ雰囲気にはじめは呆気にとられました。でもすぐに、少し離れた場所にいた上の子を大声で呼びました。「ジラン、早く来なさい!急いで!!」

ユリの「テロかもしれない。急いで逃げて!」という声を背にして、身近にいたサクラの浮き輪を外して脇に抱え、駆け寄ってきたジランもう片側に抱えて部屋の中に入りました。ユリが通り行く欧米人に"What's happened !?"と尋ねると、即座に"Water comming !!"という返事が返ってきました。「津波よ!水が来る!すぐ上に行って!」とユリに促され、水着のままでビーチサンダルだけを手に持って、子どもたちを両脇に抱え、裸足で新館をめざして全力で走って行きました。

波はあらゆるものを破壊した

とにかくホテルの1番高いところをめざし、新館の最上階である4階へ行きました。本当は屋上に出たかったのですが、その時は屋上へ上がるドアが閉まっていました。子どもたちをエレベーターホールで降ろし、下の様子を眺めると、後から次々と人が集まってくるのが見えました。

まもなく下にユリが見えたので「ここだよ!」と呼びかけると「どこにいるのかわからなくてさがしたよ」と心配そうな返事が返ってきました。ユリが上がってくるのと一緒に、宿泊客やその他の人が上がってきました。

4階のエレベーターホールから下を眺めていると、ホテルの従業員がバイクに二人乗りになって、次々と山の方へ走り出していくのが見えました。またホテルの隣にある小学校の校庭にいた子どもたちが、一斉に集められて避難していくのも見えました。

そのうちにホテルのフロントにいた女性従業員ふたりが私たちと同じ場所へやってきて、携帯電話でいろいろと話をしていました。直接確認はしていませんが、このふたりがその後、屋上へ通じるドアの鍵や、ホテルのリネン室と倉庫の鍵を解錠したと思います。第二波が来たあとに、屋上へのぼることができました。

ユリが荷物を取りに行き、戻ったあとに第二波が来たようでした。するとホテルの敷地内に大量の水が流れ込んできました。またホテルの前の道路に水があふれている様子や、瓦礫が流れていくのも見えました。

いつの間にか周りには人が所狭しと集まっていました。そして誰ともなくホテルのタオルやペットボトルの水、あるいは菓子類やパンなどを分け合ったりするようになりました。そのうちに、ケガをした人も増えてきて、皆で手当をしたり(よほどの重傷でない限り病院では診てもらえなかった)、波に飲まれながらも無事に逃げてきた人の体験談に皆で耳を傾けたりしました。

第二波が来てしばらくした後、近くに消防車が来て排水をしていたようでした。昼過ぎ頃だったと思います。また屋上が開いたので、そこから海を眺めて次の波がこないかどうかを確かめたりしました。

こうした間、サクラはタオルケットにくるまっておとなしくしていましたが、ジランは避難している人の中でただひとり、元気をもてあまして明るく遊び回っていました。そのため廊下を散歩したり、フィックス(腕浮き輪)で「すごろく」をしたり、お絵かきや折り紙をしたりして、気を紛らわせなければなりませんでした。ある意味、私も周りの人も、こうしたジランの明るさに勇気づけられた面があるかもしれません。

情報収集についてですが、電気も電話もストップした中、携帯でネットにつなぎ、情報を得ることができました。でもまったく安心はできませんでした。「ここで死ぬかもしれない」と覚悟をしました。生きた心地がしない、というと簡単ですが、強烈なストレス、興奮、疲労が混じり合ったような感覚でした。また自分ひとりで死ぬならまだしも、家族、特に子どもたちをここで死なすわけにはいかないと思い、自らを奮い立たせました。

ユリは災害に関する情報収集をする傍ら、ホテルに部屋の移動を交渉したり、周りの人(特に困っている日本人客)の面倒を見たりと、奔走していました。英語とタイ語を操り、他の国の人もこうしたユリの様子に感心していたようでした。

このあとの様子は、改めて書こうと思います。

ユリは私のテキストを読んで「避難する前に欧米人に何が起きたのか質問したこと」と、私に「上に逃げるよう指示したこと」を覚えていないそうです。改めて思い返すと、もしかしたら人々が「Go up」と言ったのではなく、自分の意識が「上に逃げなければならない」という思いが強くて、人から言われたような記憶に代わってしまったのかもしれない、とのことです。

同じように私は、避難するときに人々は皆、静かだったと記憶しているのですが、それが本当に誰も話をしていなかったからなのか、それとも私がまったく周りのことに気を払わずに逃げたせいなのか、わかりません。ただ避難していたときの映像の記憶は、極めて鮮明に残っています。被災後2週間くらいは、毎晩、津波や洪水の夢を見て夜中に目を覚ましました。今後も、この映像の記憶を忘れることはないでしょう。

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