避難してきた人々

ホテルの庭にはダイビングのログブックと銀行通帳、そして子どもの写真が置き去りにされていた

話が前後してしまうのですが、お昼すぎくらいから水浸しになったり泥だらけのスーツケースや旅行かばんを持ったツーリストが相次いでホテルの中庭にやって来くるようになりました。その内の何人かは全身砂だらけで、おそらく津波に呑まれて助かった人たちだったのでしょう。

彼らは被害を受けなかった子どもプールで自分の体を洗ったり、泥で汚れてしまった衣類をプールの水で洗ったりしていました。ずぶ濡れのパスポートや航空券、紙幣、洗った衣類などをプールサイドのデッキチェアに広げ乾かしていました。おそらくビーチ沿いのホテルに滞在して自分は助かったものの荷物は流されたり水につかったりしてしまったのでしょう。その人たちが立ち去った後には子どもの写真や破れた銀行通帳、ダイビングのログブックなど色々なものが置き去りにされていました。

午後にはヨーロッパ人のツーリストが楽しそうな笑い声をあげながらプールで遊び始めました。『こんな時に』と思ったけれど、『こんな時だからこそ』楽しい雰囲気を盛り上げるためだったのでしょうか?でも私たちにはとてもそんなことができる余裕はありませんでした。

テレビ

当初、テレビからは有用な情報が得られなかった

デラックスルームへ移ってまず初めにしたことが、テレビをつけての情報収集でした。

携帯電話でアクセスしたインターネットの情報で、今回の津波の原因が分かっていました。それがテレビを見て、はじめて被害の規模を知ることができました。そして被害がこのパトンビーチだけではなく、ピピ島それからマレーシアやインドネシアまで広がっていることを知り、とても驚きました。

その日ピピ島には翌日プーケットでオフ会をする予定だったMmさんファミリーがダイビングに行っていたので、テレビでピピ島の惨状を目の当たりにして本当に暗い気持ちになってしまいました。

部屋ではNHKの海外向け放送が見られたのですが、安否確認はツアー客のみで個人旅行者については一切触れられていません。もちろん津波の情報はありましたが例えば『被災した方は…へ連絡ください』などの情報もあれば、よりメディアとして役に立ったのではないかと思いました。

パッケージツアーに参加していた人たちは現地旅行社がサポートしてくれていましたが、わが家をはじめ個人手配旅行でプーケットに来ていた人達は、ほかに頼れる人がいないので自分自身の力で問題を解決しなくてはなりませんでした。この時点では『パスポートも現金も流されてしまったがどこへいって手続きをしよいのか分からない』とか『航空券を流されてしまい航空会社へ連絡をしたいけれど、連絡先が分からないし通信手段もない』という個人手配旅行客が大勢いました。

最終的にはプーケットタウンに日本大使館の出先機関ができたようですが、そのことがわかったのは年が明けて日本に帰ってからでした。ホテルからの安否確認もなかったので、『もし私達が誰にもプーケットに行くことを告げずにそのまま波に呑まれて行方不明になってしまったとしたら、きっと私達がプーケットで被害にあってしまったことを知る人は誰もいないんだよねぇ』と夫としみじみ話しました。実際、プーケットで行方不明になっている方の中にはそういう人も大勢いるのではないかな?と思います。それだけ現地が混乱していたといえばそれまでですが、日本だったら考えられないことです。

タラパトンの噴水 被災前と後

また、もし日本でこれだけの災害があったとしたら救援活動がすぐに始まるのでしょうが、プーケットでは(少なくともパトンビーチでは)津波の後に救援活動があったのかさえ分かりません。救急車のサイレンは絶え間なくなり続けていたのですが…私の記憶では、津波の数時間後にヘリコプターが飛来してパトンビーチをぐるっとひと周りしていったのですが、それは『空からパトンの様子を偵察に来た』そんな感じでしかありませんでした。

以前のテレビ番組で、奥尻島の津波の時に沖合いまで流されて、そこで船に引き上げられ助かった人の話を見たことがあるのですが、プーケットでも恐らく引き波にさらわれて沖へ流されてしまった人もいたでしょう。でも私が知る限りでは沖合いの空からの捜索などは行っていませんでした。もしかしたら、沖合いで救助を待っている人がいるかもしれないのに、なぜ助けに行かないんだろう?とまだほんのり夕焼けが残る美しい空と、林の向こうに広がっているだろう漆黒の海とその波間に浮かぶ人のことを思いながら、4階のベランダから海の方向を不安な気持ちで眺めていました。

テレビを見ながら、ユリも私もとてもいらだちました。こちらの状況がまったく正しく日本に伝わっていないことと、せっかく海外向けのNHKがあるのにこんな緊急時に役に立たないなんて…ともどかしく思いました。(のぶを)

 避難バッグ

私達は鉄筋コンクリートでできたホテルの4階の部屋にいたものの、それでもまだ不安で仕方がありませんでした。万一また避難することを考えて、荷物はスーツケースに全てしまい込み、1泊分の荷物と貴重品、医薬品、食料など緊急時に持ち出すための避難バックを作り『万一の時はこれをもって逃げよう』と話していました。

その頃にはすでに外は真っ暗になっていて夕食の心配をする時間になっていたのですが、極度の緊張のためかお腹が全く空いていませんでした。かといって外に食べに行く気にはなれなかったので、とりあえずホテル階下がどんな様子になっているのか、また今朝まで泊まっていた1階の部屋の鍵を返すために夫がフロントまで降りていってくれました。

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