翌朝、目が覚めて初めに思ったのが『良かった、生きていた!』ということでした。子ども達もスヤスヤ寝ておりまずは無事に一夜を過ごすことができたようです。ベランダに出て海の方向を眺めてみると、昨日の朝と同じ、真っ青で穏やかな空が広がっていました。昨日の朝と何も変わらないはずなのに、今日ものんびりした1日が始まるはずだったのに、ホテルから一歩足を踏み出すと、もう昨日までの平和なパトンはどこにもない…。

夫が朝のうちにホテルの周辺を撮ったデジカメの画像を見て、改めて昨日の出来事が夢でなかったということを思い知らされました。

12月27日 朝のパトンビーチ

津波被災当日の26日には私はカメラ撮影を一切しませんでした。当日の画像はすべてユリが撮ったものです。ケガをしている人、避難をしている様子、壊滅状態の街並みなど、今になってみれば記録として画像を残しておけば良かったような気もします。ただ、その時は自分の身にいつ何が起こるかわからないという不安と、撮影行為自体が道義にそぐわないような「場の雰囲気」がありました。自分はファインダー越しに景色を眺める「傍観者」ではなく被災の「当事者」でした。翌朝になってホテルのベランダから外を眺めながら、無事を実感することができました。そしてようやく街の様子などを散歩がてらに撮影をしようという心のゆとりができました。もちろん、いざというときのために子どもを連れて行っては危険なので、ひとりで外へ出ました。

翌朝に撮影した画像

ホテルのロビーを出てサワディラック・ロードからビーチへ向かい、そこからホテルのタンタワン・レストランの横を通り抜け、ホテルの敷地に入ってプールサイドを歩いて新館の部屋に戻りました。これは前日の被災直前に家族4人で散歩をしたコースとちょうど逆順に進むコースになります。サワディラック・ロードもビーチ・ロードも車が行き交うことができる程度に瓦礫が寄せてありました。その中をすり抜けるように多数のバイクと車が通り、そのわきの歩道では現地の方が瓦礫の撤去などをしていました。

前日の朝に散歩をしていたとき、日本人経営の旅行会社兼インターネットカフェが目に付いて「散歩が済んだら子どもを部屋で遊ばせて、朝のうちに交代でインターネットをやりに行こう」と話していたのですが、『せっかくプーケットに来たのだからしばらくはネットのことは忘れよう』と思いなおして入らなかったお店がありました。もしネットをやっていたらその時間私かユリがいたはずのお店は、家の構造は残ったものの建物の中は全部流され”がらんどう”になっていました。

ビーチに行くと、被災する2日前に昼食をとった屋台街がすっぽりと抜けるように無くなっていました。あの屋台の気さくなお姉さん達は無事だったのだろうか?安くておいしいその店にユリがまた行きたいと言っていたのに、もう行くことはできない。ユリもきっとがっかりすることでしょう。

ビーチ沿いの公園 24日撮影

屋台街の近くには公園があり、ジランとサクラが遊んだ遊具も全て流されていました。この公園はいつも子ども達でにぎわっていたのですが、昨日の津波の時にここで遊んでいた子どもたち全員が無事に避難できたことを願ってやみません。

その公園の石段に津波の時に置き去りにされたビーチサンダルや靴が何十足も並べられていました。この靴の持ち主達は一体どうなったのでしょうか?靴を履く間もなく素足で逃げる時の計り知れない恐怖、それを思うと胸が締め付けられるようでした。しかし、現地の人の中にはその置き去りにされた靴の中で良さそうなものを袋に拾い集めている人々もいました。靴のほかにもお店から流されたワインやウイスキーを拾っている男性もいます。

翌朝に撮影した画像

さらに歩いていくと瓦礫を集めてたき火をしている人がいました。私と同じように被災の風景を見て回っている外国人観光客が何人かいて、それについていく野良犬がいました。海辺にあったデッキチェアやパラソルなどはもちろん全て流されていました。昨日までそこが観光地として賑わっていた場所であることを示すいっさいのものが、消えて無くなっていました。

そのままビーチを歩いてタラパトンホテルの正面にある『インピアナ・プーケットカバナホテル』に入り、改めてこのホテルの悲惨な状態を目にしました。何度か説明したように、タラパトンホテルはオンザ・ビーチのホテルではなく、ビーチロードを挟んで海側にカバナホテルがあったので、タラパトンから海に行く度に、カバナの敷地を通らないと海に出ることができませんでした。

ビーチにでる度に子ども達と通ったカバナホテルは見る影もありませんでした。フロントは建物の外枠を残し全てが流れ去り、昨日まで”そこにあった”はずのバンガローは土台から跡形もなく消え去っていました。”この惨状では多くの方が亡くなってしまったのだろう”そう思わざるをえない状況でした。

カバナホテル前のビーチにマッサージおばちゃんがいました。ユリがおばちゃんに目を付けられたらしく、ビーチに出るたびに”マッサー、マッサー”とうるさくて仕方ありませんでした。初めは無視していたけれど1時間300バーツが250バーツに値下げになったので、ユリも『それなら後でマッサージやろうかな』と思っていたらしいのですが、とうとうおばちゃんのマッサージを受けることはありませんでした。

帰国後こんな記事をインターネットで見つけました。

”most of Patong beach road was open to traffic by Jan.1st., except where damage was heaviest around the Impiana Phuket Cabana. Khun Wallee of Cabana reported that damage was so widespread at her absolute beachfront resort that it will not re-open until October ’05. Two guests were killed but no staff lost. Khun Wallee claimed that this was due to the alertness of the Massage ladies on the beach who spotted what was about to happen and warned guests and staff just in time.

残念なことにプーケットカバナホテルでは2名の宿泊客が亡くなってしまったそうです。しかし、これだけの被害にもかかわらず人的被害が少なかったのは”マッサージおばちゃん達が海の異変にいち早く気がつき人々に警告したからだと”書いてあります。もし再びプーケットを訪れることがあるなら、そしてこのおばちゃんに会うことが出来たなら、今度こそ彼女のマッサージを受けたいとユリは思っているようです。

カバナをあとにして再びホテルの前までやってきました。ホテル前のビーチロードはどうしてこんな形になったのか?と思うように車が2台重なり合あっていたり、大きな船が店に突っ込んでいたり、おそらく何トンもあるであろう両替所の建物がそのまま道の真ん中に押し出されていました。そして海沿いの土産物屋は建物はかろうじて残ったものの、中のみやげ物はキレイさっぱり流されなくなっていました。昨日の夜も買い物に行ったセブンイレブンはドアが破れ店の中のものが全て流され、ジランがずっと行きたがっていたサーティワンアイスクリームは一度も足を踏み入れることなく店が”がらんどう”になっていました。

ホテルの敷地もいろいろな物が流れ着き、津波の直前に子どもたちが泳いでいたプールは泥や瓦礫が浮かび、庭には津波と一緒に流されて取り残されたのでしょう、たくさんの小魚が干からびていました。

津波から一夜明けて初めてパトンの惨状を目にし、『いかに自分たちが幸運だったのか』とういうことを思い、そして『あの時もし…にいたら』と思うと背筋がゾッとする、そんな複雑な心境で家族が待つホテルの部屋に戻りました。

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